「そこでは何をしているんですか」
子どもの居場所をやっていると言うと、たいていこう聞かれます。そのたびに答えに詰まります。学習支援ですか、食事を出すんですか、相談に乗るんですか。どれも当てはまるようで、どれも中心ではない。
正直に言えば、ほとんどの時間、私たちは何もしていません。
子どもが来て、ゲームをして、けんかをして、飯を食って、帰る。私はそのへんに座っていて、話しかけられたら話す。用がなければ何もしない。時間の九割はそれです。この文章は、その「何もしていない時間」が何なのかを、自分なりに整理してみようという試みです。
何もしていない時間に、何が起きているのか
先日、ある子から相談を受けました。内容は書けませんが、本人にとってはそれなりに深刻で、親にも学校にも言えないたぐいのことでした。
その話が私に届いたのは、私が相談窓口を開いていたからではありません。同じ場所で何十時間もくだらない話をしてきた相手だったから届いた。それだけです。
この子が同じ話を学校でしたら、たぶん指導が始まります。家でしたら叱られる。どちらも間違ってはいないのですが、そこには「まず聞く」という手続きがない。叱られる以外の反応をする大人が世界に一人もいなければ、子どもは黙ります。黙った先で事態が大きくなってから、ようやく大人の知るところになる。
私たちがやっているのは、その手前に居座ることです。
何もしていない時間は、無駄な時間ではなく、回線を維持するためのコストです。いざというときに話が届く関係は、いざというときには作れません。平常時に払っておくしかない。だから私たちは、何もせずにそこにいます。
「危機に立ち会う」ということ
私が代表理事を務める特定非営利活動法人わかちあい練馬という法人は、もともと生活に困窮した方や、住まいを失った方の支援を続けてきました。そこで学んだのは、ホームレス状態になってから出会っても遅い、ということでした。
家賃が払えなくなる。頼れる人がいなくなる。相談する場所を知らない。そうやって少しずつ削られていって、最後の一線を越える。越えたあとに出会えば、それは支援ではなく事後処理に近くなります。
だから私たちは「危機に立ち会う」ことを自分たちのミッションに置いています。危機が起きた後ではなく、危機が起きつつあるその場に、たまたま居合わせている人間でありたい。
子どもの居場所は、その考え方を人生のずっと上流に適用したものです。二十年後、三十年後にどこかの窓口に現れるかもしれない人と、いま、何でもない顔をして同じ部屋にいる。そういうことをやっています。
場を開くこと自体が持つ意味
私たちが活動している氷川台・羽沢という地域には、子どもが放課後に無料で過ごせる屋内の場所がほとんどありません。図書館も児童館も遠い。塾か家か、あとは公園です。
この夏、休みの期間に開室を増やしたところ、それだけで新たに四十人近い子が来ました。宣伝らしい宣伝もしていません。ニーズがなかったのではなく、行き先がなかっただけです。
もうひとつ、場を開くことには別の意味があります。
親でも先生でもない大人、いわゆる「斜めの関係」の大人が、子どもの育ちには要る、とよく言われます。ただ、そういう大人は自然発生しません。地縁が薄くなった住宅地では、子どもが親と先生以外の大人と継続的に関わる機会は、意識して作らないかぎりゼロです。
私たちの場所は、その機会を人工的に作っている場所でもあります。
保護者にとっての意味
子どもを預けて、久しぶりに一人で出かけてきます、というお母さんがいます。
私はそれでいいと思っています。というより、それも目的のひとつです。
子どもが生まれると、それまでの生活のかなりの部分を手放すことになります。手放して当然だという空気もまだ強い。けれど、子どもを産む前の暮らしをある程度は続けたいと思うのは、まったく自然なことです。数時間、子どもがどこかで安全に過ごし、ご飯まで食べてくる。それだけで手放さずに済むものがあります。
介護は、家族が抱え込むものから社会で支えるものへと、時間をかけて位置づけを変えてきました。子育てにも同じことが必要だと私は思っています。負担を家庭の内側に閉じ込めない。そのための現実的な一手として、居場所は機能します。
もうひとつ。ここは、保護者が評価されない場所でもあります。
学校でも役所でも病院でも、子どものことを相談すれば、同時に親としての振る舞いが評価の対象になります。それが嫌で相談をやめる人は少なくありません。私たちは評価する立場にないので、ただ聞くことができる。この非対称のなさは、思っているより大きな意味を持っているはずです。
おわりに
支援とは何か、とよく考えます。
計画を立てて、目標を決めて、評価をする。それが支援だとすれば、私たちがやっていることは支援ではないのかもしれません。ほとんどの時間、私たちはただそこにいるだけです。
けれど、ただそこにいる大人がいるということ自体に、意味があると思っています。何かあったときに話せる相手が一人いる。叱る以外の反応をする大人を知っている。それは、その子が二十年後に一人で潰れないための、ささやかだけれど確かな備えです。
私たちは、その備えをしています。
