教師の「語り」が阻害するもの  いくら言っても言い足りない母校の話から

更新が5年ほど前から滞っているエデュログ内の自由学園男子部のブログ。
少し前の男子部の空気感を感じていただけるとともに、自由学園に入学を志される方には是非とも読んでいただきたいと思っています。
https://www.edulog.jp/jiyu/

無意識なのでしょうが、現在更新が続いているInstagramや公式HP上の近況記事は、日々の生徒の学びを、ある種規定し「評価」しています。寮生活や生活を通じた教育の実践の様子を伝えることによってそれには何かしらの価値があって生徒募集、広報にプラスに働くのでしょうが、それ自体を生徒も目にしているという認識があるのか、疑問を持ちます。ここで問題としたいのは投稿に見られる記述の内容です。その「語り」は誰が主体となっているのか。教員の目線か、それとも生徒になりきった(なりすました)つもりで書いているのか、そしてそれによって誰に何に目を向け、何を感じて欲しいのか、というところにまで徹底的に意識する必要があると思っています。

たとえばこうした「語り」はどうでしょうか。「〇〇の生徒たちは今日、ど〇〇の○○さんを迎え貧困の実情について学びました。生徒たちは皆初めて伺う話に興味深く耳を傾け、これまで考えたことのなかった貧困の実情について関心を持ち、実際に何かできることをしてみたいと話していました。後日生徒たちは〇〇に向かい材料を集め「炊き出し」を実践しました。」
僕が読むとすごく違和感を覚えます。例えば最初の「〜を学びました」、これは「学びました」でなければならない理由はあるのでしょうか?「伺いました」ではなぜいけないのか。学ぶにつながる「学び」というのは生徒それぞれ個人が主体となって獲得するものです。その機会を経て学んだか、学んでいないかは人それぞれです。続ければ「興味深く耳を傾け」たのも生徒ですから、その表現である必要があるのか、また問いたいと思います。

これはただの例なのでなんの参考にもなりませんが、指摘したい部分、私の持つ違和感についてはなんとなく感じ取っていただけると思います。

なぜこれを問題にするのかというと、これはリフレクション、振り返り学習をする際に「教師の語り」が生徒の振り返り、学習の妨げになり得るのではないか、という指摘です。

指摘と言いましたが、仮説に過ぎませんし、拙い言語力と私の処理性能の低い頭ではここまでが限界です。
ぼくは評価されるのがとっても嫌いです。なぜなら評価者に対してまるっきり信頼を置けないからです。ぼくの何を知ってその評価が下されているのか、点数性でない限り主観に過ぎないと思っています。またその学校、教師が与える評価がなんのために存在し、なにをもたらすのか、ということ、またその評価というものの限界を認める教師に巡り会うことができなかったことが最大の理由です。

頭が回らなくなってきたので、このぐらいにします。また書き足すかもしれませんし、所々変えるかもしれません。キャパシティの問題でこの文章に対する指摘にはお答えできませんが、部分部分で共感いただける箇所はあるかと存じます。そこからそれぞれ何かを得て、いつかぼくにお話いただければと思います。
感想等、コメントはいくらお送りいただいても構いません。

この記事を書いた人

幸田良佑

2003年、山梨県生まれ。2021年、自由学園男子部高等科卒業。同年、東洋大学社会学部第二部社会学科入学と同時にニュースを専門とする番組制作会社に入社するが、1ヶ月を経たずして退職。以降、児童館、放課後児童クラブ、学童保育所、大学図書館勤務を経て特定非営利活動法人TENOHASIに入職。2022年より特定非営利活動法人わかちあい練馬 事務局長・理事に就任。