課題、宿題、そして評価。

気づいたらゴールデンウィークが終わっていて、出さなければいけない哲学のレポートを急いで書いているところです。
ずっと不良学生のぼくは高校時代からこんなもんです。笑

中学校、高校時代の課題、宿題観とは打って変わって、何事にも「自分」を意識して取り組むようになりました。
「〜〜のために」の「〜」に入る言葉が変わったのでしょうね。
これまでこの「〜」に入ってきた言葉は、進級のために、卒業のために、進学のために、大まかに言えばこの三つでしょう。
多くの方はこれらに対し、「自分」と言ったけれどもそのように「自己目的」じゃないかとお思いになられるかと思うのですが、どうも僕にはそのようには思えないのです。
進級も卒業も進学も、当然自分のため、自己目的であることは否定できませんが、進級、卒業、進学のための「要件」を定め、そしてそれを認める主体は僕ではなく「お上(学校)」な訳です。
その「要件」にどうも僕はこだわってしまうようです。
まあ俗に言う我儘というやつですね。笑

学校社会の用語に当てはめるのならば、それは「カリキュラム」というものでしょう。
あなたはこれこれをこのように取り組んだから進級、卒業、進学を認めましょう、という学校お得意の語り口です。
学校として「この子はこのような場で学び、こうした力を持っています」と世間様にお示しする必要があるわけです。

社会に送り出すためには、そうした「ゲーム」に付き合う必要があるのも納得です。
けれどもそうした社会で生きていくための「ゲーム」に仕方なく乗らないといけないんだよね、と言ってくれた人は学校における評価者の中にはいませんでした。僕が学校の中でかけてもらいたかった言葉はこれなのです。

平易な言葉で言うならば「ガチ」でこのゲームに参戦しなきゃいけない、教師も子どももそう思っている訳です。

大正自由教育の流れの中で一般的、社会的要請を拒み、独自の教育観を持った学校でこれまで学んできたわけですが、出口は結局他所と変わらない、また他所の子と勝負できるようなスキルもつけてくれるわけじゃない(ここで指しているのは現代社会で繰り広げられる「ゲーム」上のスキルのことです)なんとも残念なことでした。

まあだいぶ話も逸れてしまいましたし、校正、見直しもすることなく書いた駄文ですから、指摘、反論等は一切受け付けませんし、またこの文に関して受けるであろう指摘はまともに読んでいるのであればおそらく大方当たっていますので、気にされないことをオススメします。

さて、課題を進めますかね。(残り2000文字)

この記事を書いた人

幸田良佑

2003年、山梨県生まれ。2021年、自由学園男子部高等科卒業。同年、東洋大学社会学部第二部社会学科入学と同時にニュースを専門とする番組制作会社に入社するが、1ヶ月を経たずして退職。以降、児童館、放課後児童クラブ、学童保育所、大学図書館勤務を経て特定非営利活動法人TENOHASIに入職。2022年より特定非営利活動法人わかちあい練馬 事務局長・理事に就任。