「勉強」と「学び」

 「勉強」を「学び」と言い換えて教育を語るのが、どうも流行っているようだ。これはおそらく学習者としての子どもの主体性を認めようとする動きなのだろうが、これには「教育」というものの本質を見失う危うさを持っているように思える。

 「勉強」は、”勉む”ことを”強いる”と書き、しばしばこれの暴力性を問題にする。しかしそもそも「教育」というものは大人や権力によって強いられるものであり、ここに子どもの主体性は認められない。

 この視点は教育に関わる者は常に持っておくべきだと思う。学校に通わせる、ということが前提にある「学び」に子どもの主体性が発揮されることなどあり得ない。

この記事を書いた人

幸田良佑

2003年、山梨県生まれ。2021年、自由学園男子部高等科卒業。同年、東洋大学社会学部第二部社会学科入学と同時にニュースを専門とする番組制作会社に入社するが、1ヶ月を経たずして退職。以降、児童館、放課後児童クラブ、学童保育所、大学図書館勤務を経て特定非営利活動法人TENOHASIに入職。2022年より特定非営利活動法人わかちあい練馬 事務局長・理事に就任。